南部の芸能のはじまり




 南部の芸能と馬とは切っても切れない昔からの深い関係がありました。南部の歴史は馬そのものであり、そこに必然的に生まれた芸能、つまり南部の芸能は南部駒踊りであると言っても過言ではないでしょう。
 南部の国とは、文治5年(1189年)源頼朝が北の王者である平泉の藤原氏を滅亡させた時の戦功によって、甲斐の南部郷主、南部三郎光行が、岩手県北から青森県南の国「ぬかのふのこうり」を賜った時に始まります。すでにその頃、この地方は名馬の産地として知られていました。時代をさかのぼって、平安時代末期の歌枕に「尾鮫の牧」がとりあげられ、道の奥の風土と駒のことが詠まれています。また、寿永3年1月20日(1184年)の宇治川の戦いの時、その先陣争いで一躍有名になる佐々木四郎高綱の愛馬は七戸から、梶原源太景李の愛馬は三戸から出た名馬であると記されています。
 当時、甲斐の南部牧、波木井牧の牧監だった南部氏は、速やかに馬産、軍馬の育成に力をいれ、今の南部の地名にとなった「四門九箇の戸制」という独自の牧馬制をとり、領地を九つの戸に分轄し、一戸に七ヶ崎を附属させ、九つの戸を四つの門に分け、一門の一族の者を配属しました。一戸・二戸は南の門、三戸・四戸・五戸は西の門、八戸・九戸は東の門、六戸・七戸は北の門としました。
 その後、南部家は、南は岩手県南から、西は秋田県鹿角郡一帯、北は津軽半島と下北半島までの広大な領地を築きました。南部家統治六百有余年の歴史は、まさに東西まれに見る侵略の歴史です。その原動力となったのは馬であり、そこには必然的に馬に関係する芸能が生まれました。それが南部駒踊りなのです。南部の歴史はまさに馬であり、馬による芸能、つまり南部駒踊りが南部の歴史でもあるわけです。